いくら隠そうと思っても、目の前にいる相手は自分のことを観ている。

正確にいうと、感じ取っている。



感性の優れた人は、感じ取ったものを、映像にしたり、音にしたり、体感覚(体のあたたかさや、匂いなど)で受け取り、つまり『認識』して、

その『認識』度合いが強い人は、脳で解釈できる(ロジカルに分析できる)。という流れだと思う。



おそらく、誰もが、相手から出ているものを感じ取ることはできていると思う。

しかし、それを感じ取るためには、訓練や心構えが必要なようだ。



これを逆の立場で捉えると、

「自分の全ては相手から丸見えだ」ということである。

必死に自分と違う自分を形作ろうとしても、相手から丸見えなので、周囲には滑稽にさえ映る。本来自分として認めがたい、受け入れがたい自分を周囲から指摘されるため、強度の戸惑いを誘導し、その結果、他者を「受け入れなく」なる。



そうなると、どうなるか、

他者を受け入れなくなるということは、外部からのフィードバックを受け付けない、ということである。つまり、そうなると「自分が最高」の人間となり、「他の人は自分よりも劣る」といった、危険な発想もわきあがってくる。これが危険な発想といいたい所以は、それが「無意識」であるということである。本当はそう思い込んでいるということを、自覚できていないというところに、最大の落とし穴がある。



閑話休題



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・・・他人の偏見はすぐ悟っても、自分自身はまったく偏見などと無縁であると勘違いしている。

さらに、この無意識下の、あるいは潜在意識下の偏見は、我々の意識的で健在化した信念とは逆の場合もありうる。



How (Un) ethical Are You? HBR、Dec.2003 『ハーバード・ビジネス・レビュー』2004年8月号より引用



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ここでいう偏見は、自分がこうだと思い込んでいる地図(モデル)を示している。

エール大学、デビッドアーマー教授は、このような自己の地図と実在との相違、そしてその存在による影響を「客観性の錯覚」と称して解説しています。



この文面を見ると、身震いがする。恐怖すら感じる。

特に、「我々の意識的で健在化した信念とは逆の場合もありうる」という一文。

ひとえに、自らの「こころがけ」を洗練させていく必要があることを再認識させられた。





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他者を受け入れないということは、自分をもうけいれていない。と断言できる。

つまり、自分自身をわかっていないのだ。

いいかえれば、自分自身を正確に理解しようとすることを拒んでいる。状態である。



ふりかえれば、私もそういう時期があったかもしない。

もしかしたら、これまでの人生において、そのような時期の方が長かったとすら、感じている。その期間に失ったものは大きい。でもそれは取り返しがつかない。離れていったものは、ほとんどの場合、2度と接近することはない。



今からを大切にしなければならない、

自分の心に素直に、相手に対して素直に、身の回りに起きる全てのことに素直に向き合っていきたいと思う。

それが私の方向性であることを、21日の「EQと自己認識」で学ぶことができた。



またしても機会に感謝。