自己を正しく認識しようと考えたとき<自己認識>に、とって、
一番の敵は、自分の認識である。



自分の認識は、知らず知らずのうちに、フレーム(枠)をつくりあげ、
その認識の地図を固めようとする。
地図が固くなればなるほど、
すでにある認識以外のものをうけつけなくなり、
そして、最後に孤立する。



このような構図の恐ろしいところは、
自分が、そのようなパラダイムに支配されているという現状に「気づかない」というところだ。



自分が正しいという<支配的>認識が、<あるべき>認識をうけつけず、
たいていの場合、<あるべき>認識を拒否するだけでなく、攻撃する。
具体的には、他者を否定することにより、自己を確立する。という状況を生み出す。



それがさらに悪化すると、他者否定をすることが、自己の認識であるという誤解を生み出し。(それが、人の認識の恐ろしいところ)。ひたすらに、他者否定によって、自己の存在を確認するようになる。



これは他人事ではない。



自分が正しいと思っていることは、間違っている可能性がある。



認識の世界は、すべてマトリクスの世界であることを受け入れれば、
それも納得できる。



つまり、何が正しくて、何が間違っているか?なとどいうことは、
認識の世界では、非常に意味のないことである。



誰かの常識は、誰かの非常識。という言葉が思い出される。
我々は、仮想現実の世界に生きている、という苫米地氏の主張が思い出される。
我々は、誰も現実を理解していないのだ。



ということは、いまさらながらだが、
「自分の認識は間違っている」という前提を持つことこそ、正しいのかもしれない。

正確には、自分の認識は仮説的であり、誤っている可能性を完全否定することはできない。
とでもいおうか。

「自分の認識が間違っている」ことを受け入れることにより、
異なる認識を参照し、比較検討するという認知行動が生まれる。
それにより、<自己認識の更新>という重要な機能を手に入れることが可能になる。
それは、フィードバックを受け入れる素地ができあがる。ことに他ならない。
そのようなサイクルをまわすことができるようになると、
自己認識に<継続性>が生まれる。



人は、認識レベルにおいて、「そのままではいけない。」ということを物語っている。
常に、失敗や反省を繰り返し、そのときのストレス状態をリカバリーするによって、
正しく自己認識できるシステムを、手に入れるということなのだろう。