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「ゴッホ展に行こう」と妻から提案され、昨日行ってきた。

国立新美術館に初めて赴く。

なぜこんなにという位、来展者は多かった。

休日はもっと多いとか。

絵画を見に行く。

こんなイベントは、小学生のとき以来位だろうか。

すこしワクワクしながら、中に進む。

 

ゴッホ。については、『ひまわり』位の前提知識しかなく

他の皆さんには申し訳ないなとおもいつつ、進む。

音声ガイドのヘッドホンを借りて(500円)解説を聞きながら、鑑賞。

ゴッホの、生き方の流れと、作風の変化が、重なり合い、離れあい、

商売柄か。作品よりも、人にフォーカスが行ってしまう。

 

生前は、恵まれていた。とは決して言えなかった。

没後しばらくして、その作品の価値を認められ、

120年経過した今、その肖像を、少し離れた位置から私にみつめられている。

 

「ぼくは100年後の人々にも、

生きているかの如く見える肖像画を描いてみたい」

 

これは、このゴッホ展のテーマともなっている言葉だが

生きているということを、生命の躍動感と例えるならば、

ゴッホの一生において、生きていた時間は少なかったかもしれないと、率直に感じた。

なので、なにか空しく、

なにか悲しくなるような、

そんな訴えが、その肖像画にはある。

そういう影響力があることについて、ゴッホはいまも生きている。

彼が望んだ存在の仕方かどうかはわからないが

そんな感覚を、少なくとも私には与えた。

 

ユートピアを夢見て、ゴーギャンを招いて共同創作を目指したというが

現実的な作風とは裏腹に、夢を見ていたことに気づき、

現実と夢のギャップを痛烈に感じ

そんな現実の厳しさに失望したのかもしれない。


人を見る。という観点で絵画を見るのは面白い。

次は何を見に行こうか。と妻と相談している。